横浜歴史さろん

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横浜商人 中居屋重兵衛と尊皇思想

横浜の歴史に興味がある人なら、開港時、銅張の屋根の豪華な店構えで有名な商人「中居屋重兵衛」の名前を聞いたことがあるだろう。この人は生まれ故郷の嬬恋村では「偉人」として讃えられている。横浜開港100周年の1958年には、横浜市から感謝状が贈られている。けれども、中居屋重兵衛が横浜にいたのは僅か2年のことである。

掲載画像は主に、「中居屋重兵衛生誕200年記念写真集中居屋重兵衛顕彰会 2020年発行」より、転載させていただきました。

横浜の郷土史家 田村泰冶氏「史論集Ⅱ 郷土横浜を拓く」平成27(2015)年4月1日発行。第六章、横浜人物伝 一、横浜商人 中居屋重兵衛と尊皇思想(167p~178p)。(著者より転載了承。)
原文は縦書き、漢数字使用だが、ここでは横書き、算用数字使用、難解な漢字はよみ等を追加、また重要箇所は太字、画像の追加、などの編集を加えてある。(Toshiko)

横浜商人 中居屋重兵衛と尊皇思想

中居屋重兵衛肖像画
 昭和12年、画家の奥村崇による
嬬恋村 中居屋(黒岩九蔵氏)蔵

目 次(下記目次項目をクリックすると該当箇所へ移動します。全文読むにはログインが必要です。)
1. はじめに
2. 中居屋重兵衛こと、黒岩撰之助
3. 重兵衛に関する見方
(1)火薬製造家=製薬業の家業継承
(2)貿易商人=最大の生糸貿易商
(3)港崎町遊郭、岩亀楼と重兵衛
(4)尊皇思想と開国通商
(5)生糸売込商~
4. 巨商 中居屋重兵衛の謎の死

1.はじめに

横浜開港と同時に出店した居留地で誰もがびっくりするほど豪華な、広大な店を作り『銅御殿(あかがねごてん)』と呼ばれ、連日見物客が押し掛けたという店舗。日本人とはいわず外国人もその建物や造作、器材什器にいたるまで驚嘆させるような贅を尽くしたものであった。

平成3(1991)年に制作された東映映画「動天」はその中居屋重兵衛を主人公に据えた作品で北大路欣也が主演。そこには主人公が豪放磊落な、愛国心に満ちた人物として描かれている。重兵衛に関しては波乱万丈の人生を送り、時には医師薬剤師、火薬製造者、貿易商人として、正義感の強い政治家として、また国学を学ぶ儒学者としての顔を持っている。横浜商人としては当初、大商人でありながら後世の横浜の歴史上においては「野澤屋」茂木庄三郎・「亀善」原善三郎のような注目される人物としては評価されていない。 もう一度、大商人でもあった実像に迫ってみたい。

2.中居屋重兵衛こと、黒岩撰之助

上州(群馬県)吾妻郡嬬恋村(あがつまぐんつまごいむら)三原、黒岩幸右衛門と母のぶとの間に長男として文政3(1820)年3月に重兵衛は誕生した。黒岩家は吾妻郡一帯から利根郡、新潟にも分布している吉田氏を先祖にもつ由緒ある家柄で、子孫は黒岩姓を名乗った。この吉田家は京都吉田神道家の流派で、藤原家の系統といわれる公家の出身であった。当初、甘楽郡(かんらぐん)黒岩村(富岡市)を領していたが領主と対立して追放され、嬬恋村に移住し、旧地の黒岩姓を名乗ったという。

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